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バックパッカーの旅Ⅰ(東京~アテネ)

バックパッカーの旅Ⅰ(東京~アテネ)

排泄の喜び

                     ≪十月十二日≫     ―爾―

   右手にエーゲ海を望み、海岸線をひた走る。
 「快調!快調!きれいだなー!」などと、窓の外を見ながら悦に入っていた。
 60キロも走っただろうか。
 それまでは実際何事も起こらなかったし、窓から入ってくる陽光と同じように平穏な数時間が過ぎていった。
 しかし、バスの心地良い振動がいけなかったのだろうか。

   心の奥底に潜んでいた心配が頭をもたげて来たのは、後20キロでチェスメの街に入ると言うところぐらいからでしょうか。
 EGE海の海がいつの間にか消え、丘陵地に入って行った所からでしょうか。
 緑に包まれた、それは素晴らしい自然が広がっていました。

   時々、休憩所らしきところが見え、壁に”WC”と書かれているのを見た。
 ”このバス、ここで停まらないのかな!Izmirまでのバス道中では、1回休憩所で停まったじゃあ・・ないか。”とつぶやく。
 腹の具合がますますおかしい。
 それでも、我慢をし続けて走る。

   後15キロと言うところで、腹がまたおかしくなった。
 これだけ快調に飛ばしていれば、15キロなんてもうすぐだ。
 そんな計算もしながら、我慢、我慢。
 しかし、そんな甘い計算が無残にもぶち壊されてしまったのは、トルコ特有ののんびりとしたムードからだった。
 あの優しそうな笑い。
 暖かい陽光。
 素朴な現地人をこのときほど腹立たしく思ったときは、後にも先にもこのときが最初で最後だったように思う。

   それもこれも、全て自分の至らなさに原因していることではあったのですが、なんともやりきれない思いが、次第に大きくなってくるのです。
 ”バスから降りて、ヒッチでもしようかな?”
 真剣に考え始めていた。
 後10キロの標識が見えてからでした。
 一回目の津波が押し寄せてきたのは。
 もちろん、下痢による腹痛が。

   そんな時、快調に走っていたバスが、何を思ったのか無常にも、スピードを緩めて停車し始めたではないか。
 バスの後ろから数人降り始めた。
 そう、ここから快調に走っていたバスが、魔の各駅停車のバスに変身してしまったのは。
 心の中では、第一波の津波を必死の形相でなだめ、顔はしっかりと前を見据えて、焦点の定まらない目が、笑いさえ浮かべているではありませんか。

   早く、早く・・・と気は焦るものの、自分がハンドルを握っている訳でも、アクセルを踏み込めると言う訳でもないのです。
 いくら早く早くと思っても、バスはトルコ人に負かされてしまっているのです。
 まして運ちゃんは、助手と話をしながら、苦しんでいる日本人がいることに全く気がついていないのです。

   それでも何とか、第一波の津波を防ぐ事が出来たのは幸運だったのでしょうか。
 そんなホッとした気分も、そう長くは続かなかったのです。
 バスはそれ以来、至る所で停車し始めて、何箇所も村を回り始めたのです。
 ”ええッ、直行便じゃ・・・ないの?”
 こんな叫びも徒労でしかなかったのです。
 途中で子供を拾ったりし始めた。
 たった10キロが、これまでの70キロよりも長く感じ始めてきたのです。

       「降りよう!」
       「いや、もう少しだ。ここで降りたら後何キロも歩く事になるんだぞ!」
       「しかし、もう耐えられん!」

   そんな葛藤を繰り返す事になる。
 このときの表情は、難しい数学の公式を解くよりも難解な顔をしていたに違いない。
 この苦痛は、この世の終わりかとさえ思ったのですから。
 第二波の津波が襲ってきたのは、小さな村から元のハイウエーに戻ってからでした。
 このときから、Cesmeの街に入るまでの苦痛と言ったら、頭の中が真っ白になるかと思ったほどでした。
 額からは冷や汗が吹き出て、顔は青くなっている。
 御尻は今にも解放寸前だし。
 お腹は急激に激痛が走る。

   絶える事が出来たのは、何の力だったのでしょうか。
 バスはそんな事が起こっているとも知らず。
 普通に走っていく。
 終点らしき所にバスが停まった・・・と同時に、御尻をあげ駆け出そうとするのですが、走ると出てきそうで、足を交互にゆっくりと交差しながらバスを降りる。
 周りを見渡し、WCの文字を探すが何処にも見当たらない。
 あまり急激に動くと出てきそうで、荷物を下に置いたままジッと立ち尽くす。

   全員バスから降りて、バスが走り出した後、バスの残像の中に”WC”と言うマークが目に飛び込んで来たではないか。
 夢ではない。
 神様に出会ったというのはこういうことを言うのだろう。
 (俺は無神論者)
 このときほど、有料便所の有難さを感じた事も、荷物がなくなる恐れも頭の中から、完全に消え去っていた。

   ゆっくりと歩みを進め、料金を払って、便器にしゃがむ。
 耐えていたお尻の穴を緩める。
 ・・・・・・・・・。
 ・・・・・・・。
 この充実した瞬間を、一生忘れる事はないだろうし、この旅のハイライトだと言って良いかもしれない。
 下痢の怖さをこの時ほど、味わった事はないでしょう。
 頭にかかっていた霞みも晴れていく。
 冷や汗も引いていく。
 青い顔も赤みを帯びてくる。
 生き返ったのだ。

   トイレを出る頃には、今までの苦痛など、何処吹く風・・・。
 全く過去のものとなっていました。
 現実にもどされると、外に置きっぱなしの荷物のことが気になって、走って戻り荷物があることに安堵したのです。
 我に帰って、チェスメの街をじっくり見る事が出来たのはこのときでした。
 目の前にはエーゲ海が広がり、すぐ後ろにはエーゲ海を見下ろしている、古い城址があると言うことに気がついたものです。

   こんなにも苦しい旅は初めてでした。
 排泄する事の嬉しさ。
 排泄する事の気持ちよさ。
 排泄することの重要さ。
 排泄する事の快感。
 排泄って、こんなにも人間にとって大事な事だったんだと、初めて感じた瞬間でした。
 耐えた。
 耐え切ったのです。


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